寺 宝

魚籃観音

 御本尊阿弥陀如来上品上生定印の坐像をはじめ、観音勢至二菩薩、善導法然二大師、地蔵菩薩が安置、別に魚籃観音立像及び高村光雲作の魚籃観音がある。
 高村光雲作の魚籃観音像は白檀材の一本造りで七寸五分の立像であります。光雲は嘉永5年浅草に生まれ中島姓であったが文久3年11才、仏師高村東雲に師事、東雲の姉の家を継いで高村姓を称した。中島家の菩提を弔うため観音像を彫刻、貞林寺に奉納したもので、32才の作、従三位光雲の添書が現存しています。

魚籃観音立像 

高村光雲作の魚籃観音

高村光雲作の魚籃観音

松浦河内守木像及び火伏観音像

松浦河内守木像

火伏観音像

 火災盗難厄除けの観音さまとして、土地の人々から信心されております。観音さまは立像で、お身丈20センチ蓮台から光背まで総丈37センチあります。この寺に伝わるようになった由来は次のように言い伝えられております。
 徳川時代将軍綱吉の頃、この地方一体、下小合村の地頭であった松浦河内守信正公は、守本尊としてこの観音さまを信心し、日夜お詣りしておりました。松浦公は別に信正院という寺を建立し、宝暦7年には寺再建に当って梵鐘を鋳造して寺に納めており、これが現在、史蹟に指定されている「松浦の鐘」であります。明治維新の廃仏棄釈にあい、仏教が排斥されて、この信正院も廃寺となりましたが、松浦公のお位牌お木像はじめ守本尊の観音さまが散失してはいけないと土地の有志によって、この瑞正寺に納め、ご供養するようになったものです。
 古くから火伏と呼ばれるように、火難を初め盗難厄除けの観音さまとして霊顕あらたかと信心されております。
 殊に第二次大戦中、当地近辺の空襲の際には、全く被災せずにすんだというので、これも偏えに火伏観音のご利益であると、地元の人から感謝されて、一層のご加護を頂くようにと、昭和20年3月、最も空襲の激しくなった時に、地元の人々が集まって法要をつとめました。当山第 24代大澄上人がその後もご開張法要をつとめて、一層人々の信心を高めたものです。
 この観音さまを守本尊とされておられた松浦公は、当時幕府の信任厚く出世されて生涯を幸せに過した殿様で、誠に観音さまのご利益と申せましょう。
 松浦公は元禄 9年5月(1696年)幕府御勘定頭松浦市左衛門の三男として江戸で生まれました。宝永元年9才の時先代信守の養子となり、22才、御書院番士として江戸城に入り、享保18年西御丸徒士頭、次いで御見付役に昇進、42才で駿府(静岡)町奉行、元文5年には大阪町奉行に昇進、その年5月に従五位下河内守に叙せられました。
 延享 3年50才御勘定奉行になり300石を加増、52才長崎奉行に抜擢され500石加増 3000石の大身に出世されたのでした。宝暦 3年 57才の時長崎在勤中、家中の不始末の責任をとり、小普請組にうつされましたが、その後退任して可謙と号し隠居となり、この小合村に隠棲して悠々自適の生涯を送りました。明和 6年( 1769年 )5月 11日74才で世を去りました。
 戒名は信正院殿前河州刺史功山紹勲大居士です。
 火伏観音に因み、山門前の防火貯水槽は金町消防署に無償提供しております。